戸谷深造氏 ①

 1964年8月。
 東京オリンピックまであと二か月、東京都内ではあちこちで炎天を押しての道路工事が進められていた。通称「明治通り」(環状4号)、「山手通り」(同5号)、「青山通り」(国道246号)、「第二京浜」、「甲州街道」(同20号)、「川越街道」(同254号)、「中仙道」(同17号)など、計22本の幹線道路が拡幅され、地下鉄・日比谷線が開通した。
 この年は梅雨に雨が少なかった。東京の水がめである村山貯水池は梅雨明けとともに水位が下がり、暑さが本格化すると給水がピンチになった。のちにいう「オリンピック渇水」が発生した。都は給水制限に踏み切らざるを得ず、水道の蛇口を針金で縛って水が出ないようにする公共施設も現われた。
 街中にはオリンピックの五輪マークがあふれ、駅や役所、公民館や学校などには、暁の空を背景に聖火を持って走る若者の写真を大写しにした公式ポスターが貼られていた。道路工事のために荷物の配送が遅れ、給水が制限されたが、だからといってマスコミも庶民も目じりを吊り上げなかった。オリンピックを成功させようという願いにも似た強い意思が、社会の隅々に徹底していた。
 

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戸谷深造氏 ②

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 超高速電子計算機開発プロジェクトは、その名称からどうしてもハードウェアに目が向いてしまう。だが戸谷は
 ――OSという基本ソフトウェア群が、今後のコンピューターの優劣を決する。
 ということを見抜いていた。ところが、新たに創設された大型プロジェクト制度は、要するに鉱工業補助金の拡張版であって、機械装置やその素材、生産設備などの開発に充当されるべきとするのが原則だった。政策の対象に「ソフトウェア」という項目がなかったのである。その場合の「ソフトウェア」とは、コンピューター・プログラムだけに限らない。方法論、手法、知識、ノウハウ、サービスなどと呼ばれる目に見えない知識の集約ないし付加価値というものを、政策は定義していなかった。対象となったのは、からくもモノに付随した製法や意匠、商標だったが、その範囲はきわめて限定的だった。そういう状況だったために戸谷は、いかに大型プロジェクトの中に「OS」をはめ込むかに腐心した。
 ソフトウェアというものに予算を投入する、などとは口にできない。
 ――中央省庁の予算編成・執行システムの実現に必要な機能を作る。
 という言い方をした。
 当時、行政管理庁が最大の関心を持って取り組んでいたのは中央官庁の改革である。事務合理化推進策として「PPBS(Planning-Programming-Budgeting System)」を提唱していた。アメリカ連邦政府が導入し、効果をあげていた予算管理手法だった。それをどうすれば具体的なシステムにできるかを研究するために、大蔵省の肝いりで「日本システム研究所(のちの日本システム開発研究所)」の構想が練られていた。
 ――その下部機関にする。
 と戸谷は言った。
 1966年10月1日、研究開発組合からソフト開発を受託する「日本ソフトウェア株式会社」が設立された。ハードウェアにバンドルされるOSとはいえ、初めてソフトウェアの開発に国の予算が投入されることになった。
 資本金は7000万円で、富士通、日本電気、日立および、日本興業銀行が出資し、本社は東京都港区芝西久保明船町20の第18森ビルに設置された。社長・内藤次郎、専務・園部達郎を配し、取締役に和田弘、笠原景一、技術部長・藤井純、監査役には垣見尚二郎、八木良夫という布陣である。

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 国の研究開発プロジェクトでソフトにも予算がついたという事実は、様々な波及効果を生んだ。
 その第一は、「いよいよソフトの時代がやってくる」という機運を盛り上げ、ソフト開発を専門とする企業の独立を促したことだった。
 もう一つの波及影響は、ソフト技術者の養成という課題がクローズアップされたことだった。この課題への対応策を仕込んだのも戸谷深造である。彼は1968年2月10日に通産省を離れ、日本貿易振興会(ジェトロ)へ出向したが、後任の根橋正人に宿題を残していた。
 その前年の春、戸谷は
 ――情報産業の育成のため、長期戦略に基づいた政策を立案する機関が必要である。
 と説いた。その結果、9月に通産省内に「情報産業会議」が設置され、次いで11月には産業構造審議会に「情報産業部会」が新設された。同日、通産省は菅野和太郎大臣の名で「情報処理及び情報処理産業の発展のための施策について」を諮問、さらに1968年2月に「情報産業室」が新たに設けられた。これが発展して、1970年に「電子政策課」と「情報処理振興課」が誕生する。

 こうした一連の体制整備の中で、戸谷が狙っていたのはソフト技術者を育成・養成する専門の教育機関「情報処理大学院」を設立することだった。ソフト技術を体系的に教育し、その技術レベルを認定して資格を与え、もってソフトの有償化を促す考えだったことが分かる。
 1966年9月には初の「データ・プロセシング技術者試験」が行われ、220人が受験し「初級」に103人、「上級」に58人が合格していた。だが戸谷は、
 ――1970年度には30万人のソフト技術者の需要が見込まれ、そのうち上級技術者の需要は十万人に達する。既存の社内要員を起用することで4万人、新規養成で1万人程度は確保できるにしても、総じて5万人程度の不足が生じる。
 として、早急に効果的な対策を講じる必要があることを強調した。

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 電子工業課長としての戸谷にまつわる話で欠かすことができないのは、テキサス・インスツルメンツ(TI)社の対日進出問題と日本情報処理開発センターの設立であろう。
 まずTI社の件。
 世界最大規模の半導体メーカーであるTI社は、日本製の電卓や家電製品の市場が急速に拡大し、輸出額を増やしていることに注目して、日本に製造拠点を作ろうと考えた。知的財産権のことがあるので、100%子会社を設立したい――と通産省に通知してきた。
 日本には外資規制があった。外資100%の法人は認められないことになっていたし、外国為替法で海外への送金に制約があった。このために日本IBMはたいへんな苦労をした。このことをTI社は十分に知っていて、なぜ100%出資の子会社でなければならないか、日本企業との合弁の弱点は何かということを仔細に分析した200ページにも及ぶ報告を提出した。いちいちもっともだったが、戸谷は日本側の政策窓口として、頑なに「NO」を繰り返した。
 それには理由があった。IBMシステム/360である。
 その中核部品は薄茶色のプラスチックで覆われた厚さ5ミリ、2センチ四方の物体だった。中身はトランジスターを集積した演算回路と小さなコンデンサーなどでできた、いわゆる「ハイブリッド回路」である。これを戸谷は「キャラメル」と呼んだ。国産電子計算機がIBMシステム/360に伍していくには、日本製の優秀なキャラメルを作らなければならない。
 ――日本の企業との50対50の出資で合弁会社を作る以外、対日進出は認められない。
 と頑張った。外資100%子会社を認めるのは時期尚早なのである。
 TI社は
 ――では然るべき日本の企業を紹介してほしい。
 と言った。「紹介」という言葉には、「合弁の斡旋、調整」の意味が含まれている。
 以下のことは、戸谷の後任として電子工業課長を務めた根橋正人が詳しい。

 ICの将来性に着目し、重要な産業として育てようとするMITI(通産省の英文略称)と、日本の中にいち早く拠点を設けようとするTIとの壮絶な戦いだった。話によると、相手はTIだけでなく、アメリカ政府も関係していたそうだ。
 当時の局長は高島さんで、この件は2人の合作と言われている。日本のパートナーをソニーに決めるころは両者とも新聞記者に夜討ち朝駆けを受け、(戸谷さんは)住んでいた狭い官舎から局長に電話をかけるときは、電話機に座布団をかけて、押しかけている隣の部屋の記者に分からないように話をしたもんだ、と笑っていた。

 この案件はソニーとTI社の間で合弁会社設立と技術導入に関して合意が成立し、あとは認可のための外資審議会が開かれるのを待つばかりとなっていた。それをある新聞がすっぱ抜いた。
 大騒ぎになった。
 外資審議会の委員は新聞記者に追いかけ回され、電子工業課の課員もしつこい取材攻勢を受けた。このため大蔵省は、この件のみを扱う特別審議を行うことを決めたが、それもまた新聞に漏れた。疑われたのは電子工業課の課員である。
そのとき戸谷は記者たちに言った。
 「この課から情報が漏れたというようなことは断じてない。課員を信じなくて課長が務まるか」

 日本情報処理開発センターのことである。
 この組織はのちに日本電子計算機開発センターと合流して、こんにちの日本情報処理開発協会となった。ISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)の適合性認証制度やプライバシー保護対策実施認定制度の運営、電子商取引(EC)や電子データ交換(EDI)に係る標準化、公開鍵共通基盤(PKI)と呼ばれる高度な暗号技術の実装と普及、情報化施策の取りまとめ、情報化にかかわる様々な提言、報告書など、その領域は広く深い。ところが当初の戸谷構想では全く別のものだった。前出の根橋が語る。

 彼(戸谷)は大型プロジェクトでハードとOSの開発を担いながら、コンピューターに最も欠かせない要素であるソフトウェアに目をつけ、一大ソフトウェア開発センターを作ろうとした。そこで彼は密かに志を同じくするNTT(当時は日本電信電話公社)の幹部技術陣と協議し、必要な資金はMITIの自転車振興資金で手当てすることにより、大規模なセンターの設立を目論んだ。
ところが道半ばにして郵政省の知るところとなり、国会をも巻き込む大問題となって、NTTは通産省との直取引きを禁じられ、MITI―NTTの協力によるセンターの設立はついに日の目を見ることがなかった。構想・体制とも全く変えて両省共管のいまの日本情報処理開発協会とせざるを得なかった。歴史に「もし」はないけれど、もしこのとき彼の考えたような構想が実現していたなら、弱い弱いといわれる日本のソフトウェアも今とは全く違っていたかもしれない。

            
 戸谷深造のその後を伝える記事が残っている。『データネット・ニュース』1968年2月13日付がそれだ。(原文ママ、年次は和暦、以下同様)

 戸谷深造・通産省電子工業局電子工業課長は十日付で、日本貿易振興会(ジェトロ)へ出向した。後任は根橋正人・工業技術院標準部電気規格課長。
戸谷氏は三十九年八月に電子工業課長に就任してからわが国の電子工業、とくに電子計算機産業に関しての行政指導では多くの功績をあげた。日本ソフトウエア会社の設立、大型プロジェクト超高性能電子計算機の開発計画の推進、情報処理センターの設立、産業構造審議会情報産業部会の設置など「情報産業」の育成に関して手腕をふるった。
 後任の根橋課長は長野県出身、昭和二十三年名古屋大学電気工学科卒。三十五年通産省電気通信機課課長補佐、四十年十二月から工技院電気規格課長。四十三歳。

 根橋は言う。
 「彼の業績のうち、ほとんどの仕事は完結を前にして、次の人間、つまり私に残している。引き継いだときには、このことを不思議にも思わなかったが、その後の経験を通して考えると、これは大変なことと思うようになった。というのは、あれもした、これも自分の業績と競うのが世の中の当然であって、なかには他人の功績を横取りする人さえいる。彼にとって浮世の名声などは全く意味のないことであったであろう」
 前出のデータネット・ニュース紙2月27日付にも、その後の音信が伝えられている。

 戸谷深造前通産省電子工業局電子工業課長は、四月に開所が予定されているジェトロ(日本貿易振興会)のウィーン機械センター所長に就任する。ウィーンの機械センターは、わが国の機械関係メーカーが、東欧諸国への輸出をはかるための窓口として期待しているもので、四十三年度から予算化がみこまれており、四月に正式に設立される。
 まだ、電子計算機については考えていないが、いずれは東欧向けの拠点として活用されることになりそうだ。機械センターは各種の機械を設置し、実演と、アフター・サービスにそなえてエンジニアを駐在させる。当初は機械センター所長の戸谷深造氏とほか一名が駐在し、四十三年度中に、機械類の設置、保守技術者の派遣が行なわれる予定である。
 ジェトロの話では、機械センターをウィーンに設立する目的は、東欧諸国への輸出振興だけをねらうものではないが、関係業界としては、それを期待して、このセンターを利用したい考えのようだといっている、
 初代のウィーン機械センター所長に就仕する戸谷深造氏は三十三年に通産省電子工業課から日本プラント協会に移り、パキスタン事務所長を三十六年まで勤めるなど海外経験をもつ。電子工業課長は二月十日付けで辞職した。

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