戸谷深造氏 ①
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1964年8月。東京オリンピックまであと二か月、東京都内ではあちこちで炎天を押しての道路工事が進められていた。通称「明治通り」(環状4号)、「山手通り」(同5号)、「青山通り」(国道246号)、「第二京浜」、「甲州街道」(同20号)、「川越街道」(同254号)、「中仙道」(同17号)など、計22本の幹線道路が拡幅され、地下鉄・日比谷線が開通した。
この年は梅雨に雨が少なかった。東京の水がめである村山貯水池は梅雨明けとともに水位が下がり、暑さが本格化すると給水がピンチになった。のちにいう「オリンピック渇水」が発生した。都は給水制限に踏み切らざるを得ず、水道の蛇口を針金で縛って水が出ないようにする公共施設も現われた。
街中にはオリンピックの五輪マークがあふれ、駅や役所、公民館や学校などには、暁の空を背景に聖火を持って走る若者の写真を大写しにした公式ポスターが貼られていた。道路工事のために荷物の配送が遅れ、給水が制限されたが、だからといってマスコミも庶民も目じりを吊り上げなかった。オリンピックを成功させようという願いにも似た強い意思が、社会の隅々に徹底していた。
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