下條武男氏 ①

 1958年(昭和33)の春、大阪大学理学部数学科を卒業した。中学と大学の受験に失敗してそれぞれ1年浪人し、さらに大学で2年留年した。その理由を下條は、他人事のようにこう語る。
 「数学だけはでけた子やったけれど、他の学科があかんかった」
ちなみに下條は大阪・天王寺に生まれ育った。生家は「富士屋商店」という製菓会社で、
30人以上の従業員と数人の女中を雇うそこそこの規模だった。のちに暖簾分けした「富士屋製菓」が、現在も名古屋で続いている。
 本題と関係はないが、下條は大学2年目を終えた春休みに、アルバイトの家庭教師先で見初めた女性を1年がかりで口説き落とし、学生結婚を果たしている。普通より4年遅れての大学卒業、さらに学生結婚のうえ卒業の年の1月に第一子誕生というのは、戦後
10年を経ていたとはいえ、
 「ま、ユニークですわな」
 と当人も苦笑する。
 薹(とう)が立った新卒、しかも数学科ということで、なかなか就職先が決まらなかった。やっとのこと見つけたのは吉澤会計機という会社だった。この時代、「電子計算機」「ソフト」という言葉は一般的な認識として成立していない。市民生活で「電子」といえば原子爆弾を思い出し、「ソフト」といえば男性用の「ソフト帽」か、夏に食べる「ソフトクリーム」が常識だった。
 「電子計算機というのをやっている会社らしい」
 と告げたとき、母親が
 「電子っていうのは、体に悪いんじゃないかい」
 といった、という逸話が残っている。

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下條武男氏 ②

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 日本能率協会の職員だった下條武男が、日本人として初の女性のシステム・エンジニアを育てたことはあまり知られていない。下條はそのことを語らないし、当人もそのことを自慢しないためだ。
 小黒節子は下條の六歳年少である。
 お嬢さん学校として知られた山脇学園を卒業し、野村証券に入った。
 「初任給は9800円で、高卒の事務員としてはたいへんに高かった。高校を卒業したら何年かお勤めをして、20歳を過ぎたら結婚する。そんな雰囲気の時代でした」
と小黒はいう。
 野村証券で3年勤め、1959年に東京芝浦電気の子会社である東芝タイプライタに移籍した。東芝タイプライタは紙テープ穿孔機を製造・販売していた。伝票の記号や数字をタイプライターのキーボードで打ち込む。同時に、データが穿孔された紙テープになって出てくるという装置である。ここで小黒は、この装置のインストラクタとして働くようになった。得意先の一つが日本能率協会だった。
 同協会の新居崎は、EDP研究所に最新鋭のコンピュータ「USSC」を導入し、日本レミントン・ユニバックから下條をスカウトしたが、USSCを動かすにはプログラマが欠かせなかった。そこで小黒に白羽の矢を立てた。優秀なインストラクタだったのであろう。
 「私はコンピュータについては、まったく何も知らずに入ってきた者なので、まずプログラマとしての勉強をやりました。周りに10人ばかり、同じような教育を受ける人たちがいましたが、だいたい皆さんできる人たちです。女性は3人ぐらいだった」
 日本コンピュータ・ダイナミクスが創立35周年を記念して出版した『道・NCD35年の歩み』に小黒はこう記している。

 この当時、プログラマーというのは、多くの女性にとって憧れの職業でした。ただし、それは大学の理数系を卒業した女性に限られた職業で、私のような高校卒の者はとてもなれないものと、自分では思っていたものです。たまたま、この「EDP研究所」に誘われた。ここにくるとそんなプログラマーの仕事がやれるということになって、それは一生懸命になったものです。
   (中略)
 イチから手ほどきしてもらえるような教育ではなかった。いきなりマニュアル(和文)を渡されて、まったくゼロから勉強した。分からないところは、周囲の人に尋ね、尋ねて……。そんなとき、いちばん頼りになったのが下條さんだった。彼に聞くと非常にていねいに、よく教えてくれた。そんな印象が残っています。
 彼は確かに技術屋ではありましたが、非常に視野の広い人だった。そしておおらかな技術屋でした。難しいことを、むずかしく説明する人ではなくて、難しいことでも、きちっと分かりやすく説明してしまう人。ものの原理をきちっと理解している人――という印象でした。
 
 彼女にとって最初の大きな仕事は、NHKの視聴率調査だった。NHK放送世論調査所の所員だった吉田潤によると、システム開発が始まったのは1962年のことだった。
 吉田はいう。
 「当時、私どもには専用のコンピュータがなく、また、プログラムを作成するのに十分なスタッフもおらず、日本能率協会に委託した。両者が共通の目標としたのは、そのつど限りのバッチ処理ではなく、長期使用に耐える集計システムでしたが、それには数多くの困難がひそんでいました。まず最初は、委託内容が、事務計算とも科学計算とも違う、特殊な複雑さを持っていたこと、依頼する私どもが、コンピュータのハード・ソフト両面にわたって素人に近く、プログラミングの約束事を十分に理解していなかったことでした。両者の意見が完全に通じるまでにはかなり時間がかかりました。また、今から見れば容量も小さくスピードも遅いマシンを使って、大量、複雑な集計内容をいかにスマートに処理するかが、大きな課題でした」
 NHKが採用したのは「IBM7044」という大型計算機だったが、メモリは磁気コアで容量は約1万ワードだった。1ワードは32ビット(4バイト)だから、現在の表記に直すと40キロバイトである。
 この大仕事で下條は、メインプログラムの作成を小黒に割り当てた。プログラマとして勉強を始めて1年たったばかりの新人には、荷が重かった。
 下條はいう。
 「彼女はプログラマとしてたいへんに見込みがあった。だから無理を承知でメインプログラムに挑戦させた。結果として、大正解だった」
 再び小黒の回想に戻る。

 ほかの方たちのプログラムはどんどん出来上がってゆくのに、私の部分だけがどうしてもうまくゆかない。「これはどうしても自分にはできない」という気持ちに落ち込んでしまって下條のところへ持って行った。このときはもう辞めるつもりでした。

 仕方なく、そのプログラムは下條がつくってしまった。
 彼女は雑用係になった。
 鉛筆――当時はコーディング用紙と鉛筆でプログラムを記述した――を削ったり、資料を整理したり、机の上を片付けたりしているうち、他のプログラマーの雑談や議論を聞いていると、なぜ自分がうまくできなかったのか、その原因が分かってきた。

 自分は落伍者だ、と思ってから2か月ほどして、私は下條に
 「もう一度やらせてください」
 と申し出たのです。私にとってこれが最初の壁であったし、最初の転機でした。

 このエピソードは小黒が優れた人材だったことを端的に示している。自分とは何か、を自ら発見できるのは、一つの才能であるに違いない。

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 下條・小黒のコンビが八面六臂で活躍し、日本能率協会の名を高からしめたのは、これより少しあと、1966年1月に引き受けた国税庁の法人税システムである。折から新居崎理事が癌で亡くなり、協会の中でソフトやシステムへの関心が薄れていたときでもあった。
 本来であれば国税庁のシステム開発は日本能率協会に舞い込んでくるはずがなかった。
 小黒の述懐によると、
 「官庁の機械(コンピュータ)は国産の機種と当時は限られていた。それがN社製の機種と決まっていた。それにともなって、ソフトウェアづくりもN社の方ですでに着手していました」
 とある。相手方に配慮して小黒は「N社」と表現している。
 国税庁は戦後間もなく、IBM社のパンチカード・システムで集計業務を処理していたが、1965年に初めて本格的なコンピュータ利用に踏み切ることを決めていた。その年の夏から、「N社」は大学卒の英俊十数人を集め、総力をあげてシステム開発に取り組んでいたが、年が明けても完成に見通しが立たなかった。計画では2月末にテストを完了させ、3月末のオープン初日には大蔵大臣がテープカットを行う予定まで組まれていた。何が何でも完成させなければならない。ところが、残された時間は1か月半しかなかった。この段階で相談を受けた能率協会の責任者が下條だった。
 「一緒についてこい」
 と下條にいわれて同行した小黒は、先方の会議室の外で待たされた。待っている間、「N社」の技術者から、「自分たちがこれだけ時間をかけてもできないのに、たった2人で仕上げられるわけがない」と言われたが、彼女は黙っていた。
 彼らは図に乗って、「十何人もプロの技術者が取り組んだ後にノコノコ入ってきて、できなかったらどうする」など、嫌味とも問責とも取れる言い方をした。
 このとき小黒は一言、「下條が引き受ける以上、できると思う」と返事をしている。
 「N社」の技術者は、「生意気な女だ」と思ったに違いない。だが、小黒には自信があった。
 「N社」との打ち合わせを終えると下條は能率協会近くの旅館に2部屋を確保し、そこに国税庁の担当官を招いた。担当官から業務内容を聞いた下條がフローチャートとロジックを書き、隣の部屋に待機した小黒がプログラムに置き換えていく。コーディング用紙を能率協会のパンチャがカードに穿孔し、その場で磁気テープに落としていく。テープに落ちたプログラムは即座にテストにかけられ、デバッグが行われる。
 「下條と国税庁の役人がやりとりしている間、私は隣の部屋で眠る。私がコーディングしている間は、入れ代わりに下條が隣の部屋で休む。そんな毎日をほぼ1か月間くり返したわけです。私の母が洗濯物を届けがてら、私どもの様子をさぐりに来たものです」
 20代の娘がひと月も家に帰らず、渋谷の旅館でカン詰めになっている。母親として心配でならなかったのも無理はない。
 プログラムは作るそばからデバッグにかけられたが、ほとんどが「一発でOKだった」という。すべてのプログラムが完成したのは、オープニング式典当日の明け方だったというから、神業に近い。
 「式典にはわれわれも出席せよ、というので、午前5時ごろ自宅へ帰って、服を着替えて出直したものです」
 一緒にカン詰めになった国税庁の担当官がいたということも、現今の役人気質からは想像できない。何とも滅茶苦茶な話ではあった。


 この大仕事が終わったあと、小黒は東京・渋谷の喫茶店「ルノアール」で下條に、「独立しましょうよ」と提案した。
 彼女がそういったのは、日本能率協会の内部事情に原因があった。
 EDP研究所の創始者であり、下條たちのいちばんの理解者であった新居崎邦宜が癌のために亡くなったのだった。余談だが、彼は医師から癌の告知を受け、自ら癌に冒されていることを周囲に公表した、おそらく初めての患者であった。ドキュメンタリー作家・柳田邦男が著した『ガン50人の勇気』『明日に刻む闘い~ガン回廊からの報告~』(ともに文芸春秋)にも、新居崎のエピソードが語られている。最大の理解者を失って中島朋夫や下條武男は窮地に立たされた。
 当時のことを、同じ日本能率協会にいながら第三者の目で見ていた男がいる。のち日本EDPを経て「株式会社ビッツ」を設立することになる中西忠男(2007年没)である。
 中西は産業能率大学を卒業し、IE(インダストリー・エンジニアリング)のコンサルタントとなるべく、日本能率協会で研修中だった。製造業の業務分析を行い、生産のプロセスをフローチャート化し、機械化を含む業務改善を指導するのである。そのために電子計算機の知識も必要だったので、下條の講座を何度か受けたことがあった。
 「旧守的な理事たちにとって電子計算機は“わけの分からないもの”だったし、コンサルタントの中には“コンピュータをやるのはわれわれの仕事ではない”という声もあった」
 と中西は言う。
 折から5年前に導入したUNIVAC USSCのリプレースが近づいていた。日本IBMは「IBMシステム/360」で大攻勢をかけており、時代の趨勢はUNIVACからIBMに変わりつつあった。情報システムのコンサルティングを行うには、より多くのユーザー企業が使用する電子計算機の採用を検討せざるを得ない。リプレースを含みのうえでレベルアップを求める中島と下條は、
 「これ以上の投資は無駄ではないか」
 とする理事会と対決せざるを得なくなっていた。
 こうした内部事情の一方、通産省の主導で国産コンピュータ・メーカー7社が共同出資する「日本ソフトウェア」が設立される運びになった、という情報が入っていた。国の予算を投入して、大型計算機用の基本ソフトを開発するのだという。ソフト専門の会社として、何とかやっていけるのではないか。
 同じときに、日本ビジネスコンサルタントに所属する技術者たちが、独立してソフト専門の会社を設立する計画を進めていたのだが、そのことを2人は知る由もなかった。
 「自分たちの能力というものが、いったい世の中でどのくらい認めてもらえるものなのか、そのことをいつも考えていた」
という。

 小黒の記憶によると、「独立しましょうよ」と提案したとき、下條は
 「そやなあ……」
 というような返事をした。
 下條にも「独立」は魅力的な言葉だった。だが、独身の小黒と、4人の家族を抱える下條とでは事情が違った。さらに下條は、
 「やるなら、成功せないかん」
と考えていた。ここで自分たちが失敗すれば、あとに続く人々の道を絶つことになるであろう。
 現今のように、好んでベンチャー企業に投資をする風潮がなかった時代である。いくら「楽天家」を自称する下條でも、独立した後の資金繰りや仕事の確保が必要なことは分かっていた。
 「いいじゃないですか。応援しますよ」
 と最初にいったのは、NHKの吉田潤である。
 「視聴率動向調査システムのプログラムは、まるで名人芸のようでした。実をいうと、日本能率協会からお2人が離れても、何とかシステム変更をサポートしてもらいたかったのです。計算機のリプレースやプログラミング言語の変更、調査方式の変更などが予想されましたから」
 次いで、協会を通じて知り合った高砂熱学工業が、経理システムの開発を発注する約束をした。
 1966年の11月、国電「恵比寿」駅から明治通りに向かう途中の「三陽ビル」に、下條と小黒はいた。
 「間口一間、2坪ほどの洋間1室でした。ここから始まったんです」
小黒は懐かしそうにいう。
 資本金100万円のうち、社長の下條が30万円を、小黒が10万円を出した。残り60万円のうち40万円は、下條がUSSCの運用を指導したことがきっかけで懇意になった富山計算センター社長金岡幸二が、さらにビルのオーナーでもあった三陽商会の長沢重信、金岡の友人がそれぞれ10万円を負担した。「日本コンピュータ・ダイナミクス株式会社」が設立されたのは翌1967年3月である。
 純粋にソフト開発のみを行う専門会社では、コンピュータアプリケーションズ、日本ソフトウェアに次いで3番目だったが、下條も小黒もそのようなことは眼中になかった。
 独立したものの、下條は「仕事は日能を通す」ということにした。
 NHKも高砂熱学工業も日本能率協会の名前で獲得したユーザーだったからだ。両社からは「お2人がいない協会に仕事を出しても仕方がない。日本コンピュータ・ダイナミクスと直接、契約を結びたい」と申し入れがあったが、下條の意思は固かった。形式上は協会が仕事を請け、下條たちがその委託でソフトを作ることになった。
 ところが協会はいつまで経ってもUNIVAC USSCをレベルアップせず、産業界の実情から時代遅れになっていく。しかし電子計算機がないことには記述したプログラムをテストすることができない。
 困っていたとき、救いの手を差し伸べたのは日興証券だった。日興証券の電算部に、かつて協会の下條教室で授業を受けた技術者が何人かいた。「下條さんが困っている」と聞いて会社に働きかけ、空いている時間を有償で貸してもいい、という許可を取ってくれた。
 協会を通じて知り合った人が大きな仕事を紹介してくれたこともあった。ブリヂストン・タイヤで電算部長を務め、青山学院経営学部教授に転身した鵜沢昌和である。のち同学院学長。
 鵜沢がブリヂストンに勤めていたころ、小黒は東芝タイプライタのインストラクタとして出向していて旧知の関係にあった。また下條は協会の講師として鵜沢を招くなど、別の関係を持っていた。1969年の1月、その鵜沢がアラビア石油のシステム開発を紹介してきたのである。
 当時、アラビア石油は東京の本社にさえ、まだ電子計算機を導入していなかった。その前にサウジアラビアのカフジにある石油採掘・生成工場にIBMシステム/360を導入しようと計画していた。計画によるとその内容は、経理、原価計算、固定資産管理など、大規模なシステムだった。
 「明年(1970年)の始めにシステムを稼動させたい」
と担当者は言った。のち、アラビア石油経理部長となった関岡正裕である。正味の作業時間は10か月しかない。
 鵜沢は、
 「そんな離れ業をやってのけるのは、いまの日本には下條と小黒しかいない」
 と、関岡とその上司である部長の森清に強く推薦したのだった。
 「とにかく早く見積もりがほしい」
 という要望だったので、下條と小黒は徹夜で約2000万円の概算見積もりを作って持っていった。数日後、関岡から返事の電話が入った。
 「下條さん、この見積もりではダメですね」
 「何とかなりませんか。当社としてはぜひいただきたい仕事なので、精一杯がんばったのですが」
 下條は言った。すると電話の向こうの声が意外なことを告げた。
 「誤解なさってはいませんか」
 「は……?」
 「わたしどもは割安にシステムを作りたいとは考えていません。将来にわたって安定した、キチンとしたシステムを作りたいし、これから先のメンテナンスもお願いしたいと考えています。この見積もりは安すぎます」
 関岡がプログラムの作成だけを考えていたなら、おそらくこの言葉は出なかったはずである。コンピュータ・メーカーにディペンドしないこと。独自の発想と独自の力でシステムを設計し、責任をもって仕上げること。関岡はそこに価値を見出していたのに違いない。

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