金岡幸二氏(付中尾哲雄氏)②

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 創業期における同社の転機は二つある。
 一つは1966年1月、日本通運の新潟支店から電子計算機の運用まわりを依頼されたことだった。日本レミントン・ユニバックは日通新潟支社にUNIVAC1004モデル―Ⅱを納めたものの、「システム・サポートは当社の領域ではない」として富山計算センターに再発注したのである。同社にとって初めての県外営業所の設置となった。これがきっかけとなって、金岡はプログラム開発と計算処理の受託、さらに運用までを一貫するサービスの可能性に気がついた。
 第二の転機は翌67年である。三菱電機の富山商品営業所との取引きが始まった。これは三菱系列で地元の富山交易から売掛管理業務を受託したのがきっかけとなった。営業所の受注・販売管理業務を受託し、そのサービスの品質が好評だった。
きっかけが、新しいきっかけを生む。
 折から三菱電機の本社でも商品管理の電算機処理を本社による集中処理に転換する作業が進んでいた。システムの変更とオーバーフローの問題から、富山商品営業所が高く評価している富山計算センターに全面的に委託する話がまとまった。
 東京都世田谷区池尻にあった三菱世田谷ビル内に東京事務所が開設されたが、このことは計算センター業界にとって“事件”以外の何ものでもなかった。天下の三菱電機が、名も知れぬ地方の計算センターに業務を委託する、というのである。
 ――東京事務所の開所式は六八年二月三日午前十一時から、恵まれた天候の下で関係者約二百人を集めて盛大に行われた。
 と同社の広報誌「広報計算センター」2月20日付号は記している。
 続いて同年、名古屋、1970年に仙台、大阪と全国展開がスタートした。
 この間、富山センターの計算機をUNIVAC120からUSSCにレベルアップしたが、パンチカード・システムからストアド・プログラム・システムへの転換がうまく行かなかった。日本能率協会に勤めていた下條武男と知り合ったのはこのときである。
 「エクスターナル・プログラミングとカードの運用から、インターナル・プログラミングと磁気テープの運用への転換というのは、それこそシステムの概念がまるっきり違う。社員は手探りでバタバタやっているし、計算機はうまく動いてくれない。そこで下條さんにコンサルティングをしてもらった」
という。
 「スムーズな運用ができるようになるまで、2年か3年かかったのではなかったか」
 要員の養成に時間がかかったのである。
 1967年に下條が独立して「日本コンピュータ・ダイナミクス」というシステム設計とプログラム作成の専門会社を東京・恵比寿に設立したとき、金岡は諸手をあげて賛成し、資本金100万円のうち20万円を出している。
 後年、下條は
 「系列化してやろうとか、うまく儲けてやろうというような、俗っぽい欲がまったくない、純粋な人でした」
 と語っている。
 このあたり、裕福な家に生まれた者に特有な屈託のなさというべきかもしれない。

     
 地元経済界に支えられ、さらに三菱電機という強力な顧客を得た富山計算センターは、順調に事業を拡大していった。1972年度における同社の状況は次のようであった。

【本社所在地】富山市桜橋通り1―18(富山本社)。
       東京都港区芝西久保明舟町12―1(東京本社)。
【計算センター】札幌、仙台、新潟、富山、高岡、東京、名古屋、大阪。
【資本金】1億5000万円。
【従業員数】547人。
【売上高】17億円。
【業務内容】①受託計算②データ入力③ソフト開発④要員派遣。
【使用機械】UNIVAC USSC、MELCOM7700、FACOM230―25、MELCOM3100―10T。

 従業員の数で比較すると、同じ時期、計算センターの最大手は日立製作所系列の日本ビジネスコンサルタントが1400人だった。これに次ぐのは富士通系列の富士通ファコムが1000人、日本証券金融系列の日本電子計算の900人であって、それに続いて東京・大阪など大都市圏にある計算センターが三番手グループを形成していた。
すなわち、協栄生命系列の協栄計算センターが400人、伊藤忠商事系列のセンチュリ リサーチ センタが480人、住友銀行系列の日本情報サービスが420人、三和銀行系列の東洋コンピュータサービスが450人、独立系の日本計算センターが400人である。という状況の中で従業員547人というのは全国第4位の規模ということになる。
 気がついたとき、いつの間にか富山計算センターは全国で第4位、独立系であり、かつ地方都市に本社を置く企業ではトップに位置していた。
 ――地方計算センターの希望の星。
 としての重責が、金岡の肩にかかってきた。
 富山計算センターは創業から数年で計算センターの“大手”に数えられるまでに成長した。独立系かつ地方に本社を置く計算センターにとって“希望の星”になった。だけでなく、金岡は計算センター業の情報交換の場も作った。1967年に発足した任意団体「日本計算センター協会」がそれだ。
 日本計算センター協会発足時の参加企業は次の32社であった。

日本計算センター、青山電算、いすゞ協和会経営合理化センター、日本コンピュータ・ダイナミクス、日本ビジネスコンサルタント、東京計算センター、富山計算センター、中央計算センター、中経計算センター、横浜電子計算センター、長野電子計算センター、能研電子計算センター、熊本電子計算センター、郡南計算センター、群馬電子計算センター、山梨電子計算センター、コンピュータシステム、データー・プロセスコンサルタント、札幌電子計算センター、協栄計算センター、岐阜電子計算センター、宮崎電子計算センター、昭和計算センター、商工計算センター、社会調査研究所、四国電子計算センター、広島計算センター、東日本計算センター、姫路電子計算センター、ビー・シー・シー、備後電子計算センター、セントラル電子計算センター。

 事務局は東京都世田谷区池尻3―10―3三菱世田谷ビル内の富山計算センター東京事務所に設置されていた。
 こののち、大阪電子計算、関西コンピュートセンター、県南電子計算センター、システム開発、システム・サービス、高崎共同計算センター、中央電算研究所、中部産業計算センター、都築ファコムセンター、東京実業計算センター、東北経営計算センター、東洋ソフト・ウェアー、東洋コンピュータ・サービス、名古屋会計計算センター、日本科学技術研修所電子計算機センター、日本経営情報研究所、日本計算器販売、三菱大阪商品計算センター、万代コンピュート・コンサルト、ビジネス・コンサルティング・センター、山形電子計算センター、日本電子計算機専門学校、東京芝浦電気、日本ユニバック、三菱電機、日本電気が加わって、大所帯になった。
 すでに日立系のHITAC計算センター・ネットワーク協議会、富士通系のFACOM電子計算センター協議会が発足していて、日本IBMはユーザー会の一部として計算センターの集まりを設けていた。残るのはUNIVAC系かNEAC系、もしくは特定メーカーにこだわらないソフト会社やパンチ会社だった。金岡はその代表に座ったが、他のメーカー系団体と違ったのは「将来は社団法人化をねらう」と明言したことだった。
 「受託計算サービスを業としている会社が集って共通の課題を協議すべきだと考えた。ふたを開けたらUNIVACのコンピューターを使っているセンターばかりになってしまった。これにはちょっとまいったね」
 情報サービス産業協会が発足した1984年の秋、金岡は回想しつつ苦笑して話していた。
 なるほどUNIVAC機を使っている計算センターが8割以上だったが、「独立系」であることに意義を見つけていた金岡は、日本ユニバックに依存しない独自の事務局を設け、毎月、会員の持ち回りで例会を開いた。1968年7月には「米国コンピュータ・サービス産業調査団」を編成して、MISの実態調査を行ったりした。また日本ユニバックの営業を統括していた井上敏をたびたび会合に招いて、メーカーとサービス会社の関係はどうあるべきかを論議した。
 「メーカーと対立するとか対決するとかいうのではなく、サービス業はメーカーの下請けであってはならない、という考えがあった」
と金岡はのちに語っている。

     
 「サービス業が業として確立していかなければならない。そう考えると、一般のコンピューター・ユーザーと一緒に、特定メーカーのユーザー会の中でサービス業固有の問題を論議してもどうにもならない」
 サービス業固有の問題というのは、料金設定だった。受託計算の対価をどう見積るか、カードパンチ、マシン・タイム販売の料金はどうか、オペレーター派遣料の算定基準はいかにあるべきか。さらには、オンライン・サービスにおける通信回線の利用規制問題が大きな課題だった。
 この問題はTSSサービスで手痛い挫折を味わった日本計算サービスの加毛秀昭や、親会社の業務を代行するかたちで規制の壁にぶつかった野村電子計算センターの大野達男などの共感を得た。アメリカでは受託計算サービスがオンライン・サービスに転換しつつあったが、日本では電電公社の存在が障壁となっていたのである。
 当時のことを回想して、のち金岡幸二の急逝を受けて社長に就任した中尾哲雄が次のように言う。

 東京に支社をつくったころ、わたしは富山商工会議所の課長で、県内の事業者からの事務  機械化や合理化の相談に乗る立場でした。コンピューターの利用を勧め、「富山計算センターというのがあるから、そこに仕事を任せればいい」というようなアドバイスをしていました。
 そのころ金岡さんは社名を変えることを真剣に考えるようになっていました。商工会議所のわたしのところにやってきて、「何かいい名前はないだろうか」というのです。これから全国に事業を展開する。いつまでも「富山」では不都合ではないか。社名からこの二文字を外したい、というんです。
 金岡さんはすでに腹案を持っていました。
 「IT」「IC」だというのです。
 「何ですか、それは?」と尋ねると、
 「ITというはインフォメーション・テクノロジー、ICはインターナショナル・コンピュテーションのことだよ」
 という答えでした。
 さすがに東大出は違うな、と思いましたね。
 どうしたものだろう、と言いながら、それとなくわたしに地元の出資企業への根回しを依頼したかったのでしょう。金岡さんは代表取締役専務だし、経営基盤を固めた実績の持ち主でもあるけれど、富山計算センターは金岡薬店の子会社じゃない。地域の共同センターという役割を担っていました。だから、社名から「富山」の名前を外すには、いまふうにいえばコンセンサスが必要でした。
 「斬新だとは思いますが、横文字を地元が受け入れますかね」と答えた記憶があります。でも金岡さんはその年の役員会で本当に社名変更の議案を持ち出し、「これからはインターナショナルな時代である。かつインフォメーションの時代でもある。富山の名にこだわるべきではない」と打上げた。
 これは否決されました。出資者たちはその意味を理解できなかった。それに英語風のカタカナの社名はソニーとかカルピス食品、サントリー、ブリヂストンとかはあったけれど、新しすぎるというか、何となく軽薄に受け取られたのでしょう。
 しかし金岡さんはあきらめなかった。このころすでに、全国オンライン網の構築が視野に入っていたのだと思います。それとソフトの重要性に気がついていたんですね。「ソフトとは何であるか。コーディングされたプログラムではなく、知識の集約そのものである」ということを、しきりに強調していました。
 金岡さんという人は、大学の専攻は工学ですけれど、一方で非常に文学的な思考回路も持っている人でした。これはもうちょっとあと、わたしが一緒に仕事をするようになってからのことですが、「仕事の話はこれくらいにして、哲学のことを話そうじゃないか」と切り出されたことが何回もありました。会社の経営というものを金勘定だけじゃなく、理念というか哲学に高めていったのは、この時期ではなかったかと思います。


 1970年10月、大阪に支社を出したのとタイミングを合せ、金岡は社名を「インテック」に改めた。かねてから主張していた企業コンセプトがあった。
 「Information-Technology」と「International-Computation」である。この二つに、「Integrated Technology(統合化技術)」「Intellectual-Echelon(知的集団)」の意味が新たに加えられた。おそらく「IT」を社名に盛り込んだ最初の会社であった。
 以後、金岡は1970年2月に社団法人・日本情報センター協会が発足するに当たってコトの成否を左右する役割を負う。さらにのち電気通信事業の自由化をめぐっては、早期の自由化に向けて精力的に動き、ついに1985年4月の電気通信事業法施行を実現した。

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金岡幸二氏(付中尾哲雄氏)①

〔東京〕旧姓「石坂」。1923.9.20~1993.9.2。東京帝国大学在学中に陸軍に徴兵され、満州・奉天航空基地に飛行生として配属された。1945年8月、特攻の命令を受けたが終戦となり、復員して再度、東京大学に入った。1949年東大工学部卒、東光電気、大学講師などを経て1964年「㈱富山計算センター」を設立し専務。1970年「インテック」に社名変更と同時に代表取締役社長。富山県教育委員会委員長、富山女子短期大学理事長、ちゅーりっぷテレビ社長などを兼務した。1970年社団法人日本情報センター協会の設立に尽力し、1973年通産省産業構造審議会情報産業部会委員、1982年郵政省電気通信審議会委員、1987年社団法人特別第二種電気通信事業者協会会長などを歴任した。コンピューターとネットワークの融合による総合サービスの重要性に早くから着目し、通信回線の自由化と日本電信電話公社の民営化に貢献した。

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