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戸谷深造氏 ①

 1964年8月。
 東京オリンピックまであと二か月、東京都内ではあちこちで炎天を押しての道路工事が進められていた。通称「明治通り」(環状4号)、「山手通り」(同5号)、「青山通り」(国道246号)、「第二京浜」、「甲州街道」(同20号)、「川越街道」(同254号)、「中仙道」(同17号)など、計22本の幹線道路が拡幅され、地下鉄・日比谷線が開通した。
 この年は梅雨に雨が少なかった。東京の水がめである村山貯水池は梅雨明けとともに水位が下がり、暑さが本格化すると給水がピンチになった。のちにいう「オリンピック渇水」が発生した。都は給水制限に踏み切らざるを得ず、水道の蛇口を針金で縛って水が出ないようにする公共施設も現われた。
 街中にはオリンピックの五輪マークがあふれ、駅や役所、公民館や学校などには、暁の空を背景に聖火を持って走る若者の写真を大写しにした公式ポスターが貼られていた。道路工事のために荷物の配送が遅れ、給水が制限されたが、だからといってマスコミも庶民も目じりを吊り上げなかった。オリンピックを成功させようという願いにも似た強い意思が、社会の隅々に徹底していた。
 

戸谷深造。
 1922年に生まれた。父親の本籍をもって当人も「愛知県名古屋市出身」と説明していたが、実際は中国の大連生まれである。1944年秋に愛知県立第八高等学校(現名古屋大学教養学部)を経て、47年東大を卒業した。卒業と同時に商務省(1949年「通産省」)に入った。電気工業が専攻だったから、当人は技官になるつもりだったのかもしれない。
 電気通信機械局を振り出しに、通商機械局、電気通信機械課、重電機原子力機器班、電子工業課課長補佐ののち、58年から61年まで社団法人日本プラント協会のパキスタン事務所に所長として赴任、帰国後は通商局振興部経済協力第二部で課長補佐、重工業局で技術班長の職にあった。鋳鍛造品課から工業局電子工業課に課長として移ったのは1964年8月1日のことだった。
 以後、1968年2月に日本貿易振興会(JETRO)ウィーンセンター所長として赴任するまで約3年半の間、国内IC産業の振興とテキサス・インスツルメンツ(TI)社の対日進出交渉、日本開発銀行融資による先端技術産業の育成、先端産業に欠かせない重要機械の関税免除、国産電子計算機技術の共同開発、日本電子計算機(JECC)レンタル制度の拡充資金の確保、電子計算機用OSの開発、日本情報処理開発センターの設立、情報処理技術者試験制度の創設、ゼネラル・エレクトリック社と東芝の技術提携など、こんにちの情報産業振興策の基盤を形成した。のち「ミスター・コンピューター」「ミスターIT」の異名が付けられた。
 親しい人々からは
 ――トタさん。
 と呼ばれた。
 あるいは「MITIの看板を背負ったような男」とも評された。
 「相撲を愛するスポーツマンであり、バイオリンやピアノを自分で演奏する音楽の愛好家でもあった。なかなかの酒豪であり、グルメでもありました」
 こう語るのは、戸谷のあとを受けて電子工業課長を務めた根橋正人である。

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 戸谷が電子工業課長として赴任した直後記者として面会した河端照孝氏は、次のように記している。

 当時の通産省玄関は、国会通りに面した今の大蔵省印刷局の政府刊行物サービスセンターの向かい側。そのビルの七階の右側に電子工業課があった。やっとクーラーが窓際に一課に一、二台設置され、室内は書類が山と積まれ、多くの課員はワイシャツは腕まくりで右手にボールペン、左手は団扇をせわしなく動かし、流れる汗をタオルで拭う。
 そんな中で、目はギョロリ、大きな身体を静かに動かし、口元に笑みを浮かべて白いハンケチと扇子を持つ新課長の戸谷さんは、大課長の風格を持っていた。多くの業界人が訪ねてくる。そして時には、興味とネタ探しのみを目的とした新聞記者。情報産業の未来と、国がやらねばならないこと等を話すとき、あの大きな目は細められ遠くを見つめる様に誰とでも対応した。

 おそらくこれは、のちに「日本電子計算機開発協会」という名をもって誕生する団体の設立について、通産省の意向を確認するよう、産経新聞社長・稲葉秀三から指示があった直後のことであろう。24歳になったばかりの駆け出し記者には、戸谷の風貌から受けた印象は強烈だった。
 戸谷にとって電子工業課は、初めての赴任ではなかった。1957年に新設されたばかりの同課に課長補佐として在席していたことがあった。その年の7月に電子工業審議会が承認した「電子工業振興五カ年計画」を具体化するのが仕事だった。計画では、1962年までに国内電子産業の生産額を、対57年比3倍の4468億円、うち電子計算機については設置事業所数975か所(対57年比6倍)、設置台数2652台(同11一倍)に引き上げることを目標としていた。
 以後の6年間に、計画は二度の見直しに迫られ、計画値を大幅に下方修正せざるを得なかった。電子工業製品を受容する産業全体の力が未成熟だったのである。電子計算機に限っていうと、六四年三月末現在の設置台数は五百台を上回った程度、生産額は百億円に届くかどうかという状態だった。期待が大きすぎた。
戸谷がパキスタンのカラチで過ごしていたとき、国産電子計算機のレンタルを引き受ける準国策会社構想が具体化し、日本電子計算機(JECC)が六一年に設立されていたが、生産額が百億円程度では真価を発揮することができない。対して日本IBMは基本特許のクロスライセンス契約で譲歩した代償に、中・小型機の国内生産の認可を取り付けていた。
加えて戸谷が課長に就任する四か月前に、IBM社はシステム/360シリーズを発表して、国産メーカーに強い衝撃を与えていた。IBM社はいずれ、同シリーズの国内生産を認可するよう要望してくるはずだった。腕をこまねいていれば、国産コンピューターの夢は夢のままで終わることになる。何か強烈なカンフル剤を打たなければならなかった。
 この前後に戸谷との交渉窓口を務めた元日本IBM会長の椎名武雄(当時常務)は、
 ――戸谷さんはサムライだった。
 と回想している。
 ――通産相の理論は、国産企業の育成とコンピューター産業の発展こそ第一義、自由化もその有効な手段と明確で、これを貫こうとの信念を背景に、激せず論理的に説く戸谷氏のタフなネゴシエーターぶりには、本社の人間も脱帽しないわけにはいかなかった。

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 当面の緊急課題はIBMシステム/360シリーズへの対抗策だった。六二年度に鉱工業補助金を適用してスタートした「電子計算機技術研究組合」が目標とした大型計算機は、「IBM7040」「同7090」対抗機だった。その成果は「FONTAC」として実を結びつつあったが、IBM社はさらに強力な次世代機を投入してきたのだ。
 オリンピック開幕直前の10月1日、通産省は通産相・桜内義雄の名で電子工業審議会に、「電子計算機工業の国際競争力強化のための対策」について諮問し、審議会は「電子計算機政策部会」を設置して検討に着手した。このとき、自動制御班の班長を務めていた廣田慶次郎が、富士通の岡田完二郎の部会長就任を根回しした。通産省としては、海外メーカーから技術を輸入せず、独自路線を貫いていた富士通を中核に据える考えだった。
 12月の通常国会で電子工業振興臨時措置法の延長が決まった。引き続き電子機器、部品、材料について試験研究を促進する特例を設けることができる。特例とは補助金制度であり、研究開発プロジェクトの支援であり、税制上の優遇などだった。
 翌65年4月15日、電子工業審議会は「電子計算機工業の国際競争力強化のための対策」についての中間答申をまとめ、通産大臣に提出した。その内容は、

 一、輸入制限の継続
 一、企業協調の促進
 一、六八年以後の取り扱い機種を国内開発機種に限定
 一、プログラムの共通化

 ――などというものだった。
 これまでの間に、戸谷は国産メーカーの協力のもとでIBMシステム/360を調べ上げ、その優位性が「SLT」と呼ばれるモジュール型のプロセッサー・ユニットと「OS/360」と呼ぶ基本ソフトウェア群にあることを突き止めた。その二つがシリーズ・アーキテクチャーを具現しているキーファクターなのである。
 国産メーカー各社からは、
 「FONTACに続く次世代コンピューターの研究開発プロジェクトを早急にスタートさせてほしい」
 という要望が寄せられていた。
 延長が決まった電子工業振興臨時措置法に基づいて、もう一度、鉱工業補助金を適用できないか、というのである。やれないことはなかったが、戸谷は回答を保留した。
 このとき戸谷が相談した相手(ないしヒントを与えた人物)は、和田弘ではなかったか。
 和田は55歳の定年をもって工業技術院電気試験所を退職し、成蹊大学の教授に転身していたが、コンピューターの国産化政策に関して強い影響力を持っていた。あるいは、電子計算機政策部会長に就任した富士通社長・岡田完二郎が持ち前の手腕を発揮して、国産メーカー各社の若手に方策を検討させたのかもしれない。
 10月11日、産業構造審議会の技術部会が「大型プロジェクト研究開発体制について」と題した報告書(中間答申)を発表した。重要な鉱工業技術ではあるが、民間企業が単独で行うにはリスクが大きすぎるために容易に実施できない研究開発について、全額を国の予算でまかなう新しい制度が必要である、という内容だった。
 鉱工業技術に限定したのは、実施主体を工業技術院に特定する意図が明確だった。期間を5年間とし、一プロジェクト当たりおおよそ100億円の国家予算を投入することを想定していた。長期にわたる施策が、5年を目安とすることが中央省庁の暗黙の了解となっていたからである。
 言うまでもなく、きたるべき66年度予算編成に照準を当てたものだったが、長期技術開発のテーマごとに予算を獲得し、民間企業を参加させるという方式は、既存の法律に依存しない分だけ柔軟性があった。そしてその第一に次世代電子計算機基礎技術の研究開発を位置づけたのだ。
 この答申を受けたかたちで、重工業局はただちに
 「超高速電子計算機開発」
 「電磁流体発電」
 「火力発電所排ガス脱硫」
 の3つのプロジェクトを組み立てた。予算の獲得が、すなわち新制度の創設を意味するのである。重工業局をあげて大蔵省との予算折衝が始まった。
 事務レベル折衝では課長・戸谷を筆頭に総括班長・浜岡平一、電子機器班長・関山吉彦、自動制御班長・廣田慶次郎の三人がスクラムを組んで粘りに粘り、局長・川出千速が動き、事務次官・佐橋滋が自由民主党に働きかけた。
 とはいえ、総額100億円というのは、当時の予算の中では途方もない要求だった。65年度の一般会計予算総額は約3兆6600億円、66年度は4兆3000億円に過ぎなかった。ちなみに2000年度は約85兆円だったから、重みでいえば当時の100億円は現今の2000億円以上に相当する。
 そういう状況の中で、しかし大蔵省は理解を示し、3プロジェクト合計で初年度10億円、うち「超高速電子計算機」に3億7000万円を割り当て、向こう5年間に全体で概ね100億円の枠内で予算を投じることが決まった。初年度の予算額はともあれ、新しい制度が実現する意味の方が大きかった。
 予算枠は年度ごとに広げていけばいいであろう。
 技術目標の策定には、国産メーカーから以下のような顔ぶれが参加している。

 富 士 通 清宮清、小林大祐、池田敏雄、尾身半左右、川谷隆彦、木村教則。
 日 本 電 気 小林宏治、出川雄二郎、田中忠雄、樋口次郎、金田弘、水野幸男、小川勇、仙田勤、加藤晃義。
 日立製作所 駒井健一郎、橋本真吉、久保俊彦、滝田勝三、中澤喜三郎、村田健郎、高橋茂、小西純三。
 東京芝浦電気 玉置敬三、森佐一郎、牧野雄一、小板橋正治郎、小野弘智、宇都宮肇、村上有秋。

 その結果、次世代の国産電子計算機の目標が次のように定まった。

 一、加算速度0.05マイクロ秒、主記憶容量200万バイト、外部記憶容量10億バイトの性能を備えること。
 一、本格的な多重利用システムであり、多様な情報処理が可能であること。
 一、限られた数ではあるが文字を読み取る機能を備え、処理結果を漢字、図形、音声などで表示すること。
 一、自動診断と自動保守の機能を備えること。
 一、ソフトウェアの拡充強化と共通化が図られること。

 加算速度の0.05マイクロ秒がどれほどのものだったかというと、1965年7月に発表されたIBMシステム/360モデル65が0.8マイクロ秒だったから、5年から6年先の見通しとしては妥当なものだった。また1972年8月発表のシステム/370―158の主記憶容量は最小52万バイト、最大614万バイトだったので、国産メーカーの予測はほぼ的中していた。
 この概要に沿って、大きく6つのプロジェクト・チームが編成された。第一は大規模集積回路(LSI)開発チームだった。
 LSIは1959年の2月、テキサス・インスツルメンツ(TI)社の研究員、ジャック・キルビーが1個のトランジスターと3個の抵抗器、1個のコンデンサーを1つのゲルマニウム結晶の中に組み込むことに成功し、1961年にTI社が「ソリッド・サーキット」の名称で製品化していた。
 また1961年にはフェアチャイルド社が世界で初めてシリコンを素材とした集積回路を製品化し、LSIの時代が到来しつつあった。開発チームはシリコン方式を前提に独自のLSIを設計するとともに、生産技術を開発しようとした。
 第二は主記憶装置に使用するコアメモリーの開発だった。16キロバイトから32キロバイトの「緩衝記憶機構」――こんにち風にいえばバッファ・メモリー――を備えようというのである。
 第三のチームはマルチプロセッサー技術の開発に焦点を絞った。システム/360やUNIVAC1108Ⅱではすでにプロセッサーを2個搭載する方式が採用されていたし、富士通はFACOM230―60で対称型マルチプロセッサー方式に挑んでいた。そこでプロジェクトでは、プロセッサー4個を搭載した場合の高速演算方式と高信頼性技術、さらにタイムシェアリング技術を開発することとした。
 この3つをメインとして、超高速電子計算機開発プロジェクトではさらに「漢字表示も可能なドット式CRT表示装置」「標準字体の英数字読取装置」「規則的合成法による音声出力装置」の三つがサブテーマとなった。漢字を表示し、機械的に文字を読み取り、処理結果を合成音声で出力する。電子計算機は、ソロバンより早く正確に加減乗除を行い、飽きもせずに同じ方程式を何度でも解く装置としての価値がようやく認められた段階だった。電子計算機にそういう能力を要求しているユーザーは、世界中のどこを探してもいなかった夢の電子計算機が構想されたのだ。

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