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名木田兵ニ氏 ②

    1

 前節の続き。
 富士通信機製造は「FACOM230―10」の営業部隊を新設し、名木田氏を推進役として引っ張り出した―というところまで書いた。営業は未経験でも、工場長として発揮した統率力と企画力が評価された。
 名木田氏が立てた戦略は次のようなものだった。

  1、販売部隊の増強。
  1、ソフトウェア・エンジニアの養成。
  1、計算センターの展開。
  1、ユーザー教育の推進。
  1、「230―10」友の会の開催。
  1、PRの展開。
  1、学生向けセミナーの開催。

 販売部隊の増強というのは、営業マンの数を増やせばいいというものではなかった。電子計算機を理解する営業マンを育てなければならない。まず富士通社内に専門グループを養成し、富士通ファコムだけでなく、全国にディーラーを設置して、その要員を養成するというものだった。
 現在のわれわれから見ると、
 ――当然ではないか。
 と思えるが、冷蔵庫や洗濯機、テレビ、炊飯器などならともかく、当時、電子計算機を売るというのはそうそう容易なことではない。富士通信機製造はその名の通り通信機器のメーカーであることを自認し自負していたわけで、社内で電子計算機は
 ――社長の趣味。
 のように思われていた。のちのち語ることになるが、大正・昭和の初期に計算機を扱った森村商事と事情とよく似ている。自社の支店や営業所ですら満足に売る力がないのに、代理店を置くというのはいかにも乱暴な話だった。
 また計算センターの展開は、富士通直営のセンターばかりでなく、ディーラーやユーザーにもセンター機能を果たしてもらうというもので、これはのちの「FACOM電子計算センター協議会」につながっていく。ユーザー教育では、分かりやすいテキストやマニュアルを整え、ユーザーばかりでなく、一般社会人や学生にもセミナーを開いた。
 「このほかに、宣伝カーとかPR用の映画とかを企画したんですが、予算の関係もあって、様子を見て、ということになりました」
 と名木田氏は言う。
 こうした企画と、足で稼ぐ営業の努力が実って、「FACOM230―10」は全国にユーザーとシンパを作っていった。岡田完二郎の「何でもやってみろ」の精神が、富士通のコンピューター事業を形づくっていく。

 

   2

 再び名木田氏へのインタビュー。
 
 FACOM230シリーズがきっかけで、1974年に三菱商事が富士通の計算機を売るという話が持ち上がりました。富士通側は高羅(芳光)さんと小林(大祐)さん、商事には藤野さんと田辺さんという人がいて、トップ交渉で商事の子会社の「三菱事務機械」(MOM)という会社に富士通が資本参加し、そこを窓口に技術計算分野に売り込もうという話がまとまったのです。
 富士通としては大きなプロジェクトだったのですが、三菱事務機械は三菱電機の計算機「MELCOM」と、フランスのブルという会社の計算機を扱っていて、その流れでアメリカのハネウェル社の計算機を販売していました。
 ――なんで「FACOM」機を扱うのか。
 という反発が社内で強かった。
 というのは、親会社の三菱商事から十分な説明がなかったようなのです。いわば強権発動に近い状態だったために、三菱事務機械の社内に、
 「FACOM機の営業には、一切協力しない」
 という空気が湧き出していたわけです。
 小林(大祐)さんから、
 「どうしたものか」
 という相談がありました。相談というより、
 「名木田よ、何とかしてくれ」
 というわけでした。あれこれ考えて、ここはひとつ、思い切った手で臨むしかない、と考えたんです。相手の腹中に飛び込むしかない、と。
 ――切り込み隊長ですか。
 いやいや、そんなんじゃありませんよ。わたしが考えたのは、三菱事務機械の人の立場で眺めたら、どういうことになるだろう、ということです。突然、他社の資本が入ってきた。おまけに誰とも分からない競争相手の営業部隊が大挙して押しかけてきて、しかも現在の販売活動を続けながら「FACOM」機も扱うというのは、たいへんな負担になる。協力なんてとても期待できないじゃないですか。
 反発や不信感が起こるのは当然ですし、間違えば社内対立という事態に発展しかねない。
 それで、たった一人で出かけていきました。
 ――たった一人?
 そう、一人。
 「常務」という肩書きでしたけれど、いざフタを開けたら役員が一人送り込まれてきただけでしたから、富士通の営業部隊が大勢来ると思っていた先方の皆さんは、
 「名木田さん一人ですか?」
 っていう感じで、キョトンとしていましたよ。振り上げた拳の始末に困るという恰好です。
 そういうわけで三菱事務機械に新設された「FACOM営業部」は、少数の部隊でした。わたしは努めて社内の人たちと接触し、話し合い、三菱事務機械の人間になりきって仕事をしました。富士通の利益代表じゃないんだ、三菱事務機械の利益代表なのだ、ということを理解してもらいました。
 三菱商事や富士通の応援もあり、FACOM営業部が実績を作り始めたので、社内の反発もだいぶ和らぎました。わたしが富士通に戻るとき、FACOM営業部は三菱事務機械の中で大きなウエイトを占めるようになっていました。最後には他部門の皆さんも、別れを惜しんでくれました。
 ――三菱事務機械がFACOMの市場を作った、ということですか?
 いや、三菱事務機械の力だけではありませんよ。富士通も頑張った。みんなが頑張った。それで「FACOM230」シリーズは、あっという間に二千台を上回る受注を獲得し、国産の計算機として新記録を作っていました。そこで、さらにシェアを広げるため、
 「富士通の営業部隊を強化するとともに、内部に教育部隊やソフト部隊を持つべきである」
 という主張が強まったのです。
 1970年、富士通は富士通ファコムの教育、営業、システム開発の三部門を本社に移籍するという決定を下しました。そのゴタゴタで、日本IBMから移籍してきたエンジニアをはじめとする”サムライ”たちは次々に退職していきました。計算センターの処理能力を強化するために、計算機を最上位機の「FACOM230―60」にレベルアップしたのですが、オンラインやの需要に十分に対応できませんでした。
 事業の半分を本社に持って行かれ、受託計算サービスも伸び悩んだ結果、富士通ファコムの売上げは下がり、とうとう赤字に転落してしまいました。三菱事務機械のファコム営業部が軌道に乗り、一息ついていたとき「富士通ファコム再建」の指令が下ったわけでした。1977年の秋でした。

    3

 富士通ファコムは資本の整理もあって、書類上、1977年の秋に解散し、名木田氏が社長に就任したときには、「FIP」(Fujitsu Information Processing)という新しい社名で計算センターとしてスタートしていた。
 名木田氏は、まず再建計画を立てた。
 ――創意と協調。
 をスローガンに、従業員の団結と協力を訴え、特に営業力の強化に着手した。
 だが、営業の現場から苦戦の報が相次いだ。知名度の点で「FIP」では戦いにならなかった。ライバルは「日立」「日本電気」など親会社の名前を冠していた。競争になると、ユーザーは「日立」や「日本電気」を選択した。そればかりでなく、社員を採用するのにも「FIP」では富士通直系の会社であることが理解されない。
そのために名木田氏は、社長の小林大祐氏(就任は1976年)に直訴した。
 「富士通の名前がほしい」
 と訴えたのだ。さらに、
 「オンライン・サービスとともにコンピュータを売らせてほしい」
 とも言った。いわば富士通ファコムの復活である。
 オンライン・サービスを売るには、ユーザー先に端末装置を置かなければならない。ハードウェアとセットにしてこそ、サービスに付加価値が出る。オンライン・サービスは近い将来、必ず大きな事業分野になる。そのためには、TSS部隊をFIPに復帰させてもらわなければならない。
 当時、富士通は、子会社に「富士通」の名乗りを認めていなかった。
 「長い将来にわたって富士通の冠を認めてくださらなくても結構です」
 名木田氏は言った。
 「十年後に、FIPの名前で世間に通用する会社にしてみせます」
 その熱弁に小林氏は言った。
 「分かった。君の言い分を通そう」
 FIPにだけ認めるのは不都合ということから、ほぼ同時期にスタートしたソーシャル・サイエンスラボラトリ(富士通SSL)にも〔富士通〕の名乗りを付けることになった。社名を「富士通FIP」に変更したのは1978年である。なおその後、富士通は方針を転換し、新たに設立する子会社のすべてに「富士通」の冠を付けるようになった。
 ビジネスの現場では、「富士通」の名前の効果は大きかった。次々に受注を獲得し、ネットワーク事業も拡大した。同時に客先にエンジニアを派遣するサービスも手がけ、ソフト開発事業を増強するきっかけとなった。またこれが基礎となって、同社のアウトソーシング・サービスが展開された。日本経済の成長と社会の情報化の波に乗って営業成績はグングン上がり、日本のソフト/サービス業界を代表する1社にまで成長した。
 また名木田氏は、富士通ファコム時代に7社で発足した「FACOM電子計算センター協議会」を、またたく間に会員百社の大所帯に拡大した。彼らもまた、富士通製コンピューターの販売拠点となった。ユーザーに密着したソフト/サービスのパワーが、のちにオフコン「Kシリーズ」のシェア拡大で発揮される。
 「ずっとあとになって、業界にソフトの受託開発を重視し、技術者の派遣を否定する風潮が生まれました。しかしわたしには、本当にそれでいいのか、という疑問がありました」
 と名木田氏はいう。
 「システム・インテグレーション・サービスという言葉のなかには、ユーザーの経営と一体となって活動する技術者の派遣や常駐も含まれているはずでしょう。ユーザーとともに歩み、ユーザーの利益に貢献する。わたしたちソフト/サービス産業のビジネスモデル、社会的な役割は、まさにそれではないか、と思うんですよ」
 また名木田氏はこうも付け加えた。
 「情報化の進展は、むろん、通産省を中心とする情報化促進策の後押しが大きな役割を果たしています。わたしたちは必死で、高度情報化社会に向う歴史の波の中を泳いできたわけです」
 語り終ったとき、2時間が経過していた。現役を引退し、80歳を過ぎてもなお、「わたしたち」という言葉が口をついて出るのは、余燼いまだに冷めやらず、の証しなのに違いない。

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