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名木田兵ニ氏 ①

 ITサービス産業にかける情熱をひしひしと感じた人物がいる。
 その人には、安藤多喜夫氏とあい前後してインタビューをする機会を得た。
 会ったのは、そろそろ梅雨が明けようとするころだったろうか。約束した場所は東京・渋谷の東急会館1階、プレイガイドの前、ということだった。わたしは地下鉄銀座線から明治通りをまたぐ通路を経て、文化会館の階段から降りていった。
 その人は背中を向けて立っていた。
 私が表通りからやってくると考えたのだろう。
 名木田兵二。
 前方から光を受け、背筋をピンと伸ばしたシルエットは、矍鑠(かくしゃく)たるという形容詞そのものだった。175センチというのは、戦前生まれとしては背が高い。
 筆者に気がついて、名木田氏の右手が上がった。
 「やぁ」
 にこやかな笑顔が広がった。
 「ごぶさたいたしました」
 私は頭を下げた。
 「お元気そうで何よりです」
 「あなたも、少しも変わっていない。ご活躍のようで」
 自分がはるか年下なのに、「あなた」と呼ばれるのは面映かった。お付き合いをいただいて20年以上になるが、筆者が知ったとき、名木田兵二という人はすでに50歳を超え、国内ソフト/サービス業界のリーダーの1人だった。
 ――現役の当時、この人はいくつ肩書きを持っていたのだろう。
 富士通エフ・アイ・ピーの代表取締役社長であり、のち会長を経て、相談役、顧問を歴任した。併せて1980年から7年間、FACOMセン<ター協議会(現FCA")の会長を務め、1986年から2期4年にわたって社団法人情報サービス産業協会会長の職にあった。この間、産業構造審議会情報産業部会委員、財団法人流通システム開発センター理事、財団法人ソフトウェア情報センター理事など、引き受けた公職は数え切れない。
 一度だけ、温厚な名木田氏を怒らせたことがあった。1985年に成立した労働者派遣事業法にからんで、論評を書いた。
 ――通産省や情報サービス産業協会は技術者の派遣はいかんと言っているが、業界の技術者のレベルが低すぎるのではないか。その意味で下働き的な派遣は止むを得ないのである。
 というような内容だったと思う。それを読んで、この人がすっ飛んできた。
 ――だからこそ、協会は人材の育成と経営者の意識向上に取り組んでいる。いいことばかり書いてほしいとは言わないが、あなたはそのことを十分に承知しているはずだし、業界のレベルアップを側面から支援すべき業界紙が、業界を叩くだけでいいのか。本末転倒ではないか。
 唇が震えていた。
 ある意味で、わたしは業界の痛いところを衝いた。業界として「脱派遣」を唱えていながら、実態は派遣で成り立っていた。
 ――だからこそ。
 ともに闘ってくれるはずの”同志”に裏切られた、という思いがあったのかもしれない。
 近くの喫茶店に入った。
 本題に入る前の雑談の中で、共通の知己の病没を伝えた。それを聞いたとき、一瞬だが、スプーンを動かす手が止まった。その人物はかつて、名木田氏の下で部長として勤めていた。ともに譲れない線というものがあって、上司と部下の関係を超えて議論したことがある、と耳にしたことがあった。
 「個性が強くてね。社内でよくぶつかったけれど、”サムライ”でしたね」
 「名木田さんは、その総大将だったわけでしょう?」
 「そんなことはありませんよ」
 いやいや気骨は一本通っている。
 「で、今日は何を話せばいいの?」
 それで私が取っかかりを作った。
 「役に立つといいけれど」
 名木田氏は話し始めた。

    
    2

 生まれたのは1919(大正8)年、岡山で少年期を過ごしました。早稲田大学に入ったときは、もう東京に引っ越していました。卒業は1941年の12月、太平洋戦争最初の繰上げ卒業でした。翌年の1月、富士通に入ったんです。
 富士通というのは、富士電機の子会社で、「富士通信機製造」というのが当時の名前でね。電話機とか交換機を作っていたんです。大学の担当教授から、
 ――通信関係で大企業より中小規模で新しい会社を選べ。
 というアドバイスをいただきました。先見の明があったんですね。
 スタートは工場の総務部門でした。その後、一貫して総務、人事、労務畑を歩みました。44年から1年半ほど、軍隊に召集されましたが、内地勤務だったので、終戦と同時に復社することができました。
 会社の復興に協力する意味から労働組合の結成に参加し、推されて執行委員会の組織部長を務めました。会社との団体交渉に出ましてね、日ごろ可愛がっていただいた和田(恒輔)社長から
 「あんまりいじめるなよ」
 なんて、冗談めかして言われたことがありました。
 こういう経験から、経営の要諦というか、人生の要諦というものを学んだような気がします。それは、人を愛し、相手を信頼することなんですね。
 東京オリンピックの年は長野県の須坂工場で工場長をしていました。翌年、営業部門に配属されたのですが、初めての業務ですし、もう46歳になっていましたから、がむしゃらに仕事をしましたよ。
 富士通信機製造は54年にリレー式の、わが国初の自動計算機「FACOM100」を完成させていました。本格的に売り出そうとしたのは60年代に入ってからでした。岡田完二郎という社長がいましてね。コンピュータが将来のデータ通信の一翼を担うことを見通していたんですね。
 この人が大英断をした。
 というのは、電子計算機の開発は苦労の連続で、お金ばっかりかかる。海のものとも山のものともわからない。 富士通信機は電電公社が大口の取引先でしてね。だから電話機とか交換機をやっていれば間違いないというのに、岡田さんは
 「当社はコンピュータに賭ける」
 と打ち上げた。
 それで電子計算機の開発を続け、拡販することになったわけです。
 ――小林大祐さんとか池田敏雄さんとかのお名前を聞いています。
 そう、川崎工場の〔猛者〕たちね。技術部隊には多士済々がそろっていました。
 「優れたマシンだから売れ」
 と言われたって、買ってくれるユーザーはそうそうあるわけじゃないし、わが国の電子計算機はまだ初期の段階でした。それで計算センターを自分で作って、お客さんに見せたり、性能をテストしたり、そのかたわらで計算業務を受託したりしていました。
 最初は東京の日比谷の朝日生命ビルに「FACOM128Bセンター」というのがあって、それが新橋のハマゴムビルに移転して「FACOM222センター」になりました。見込みのお客さんを案内するモデルルームでもありました。当時は計算センターの役割が大きかったのです。
 営業の観点で見たとき、ひとつの転機というのは65年ごろだったでしょう。日本経済も好況が続き、その中で「FACOM230―10」というマシンが発売されたときです。
 ――「名機」といわれたマシンですね。
 その通りです。
 〔MAZDA〕の自動車を作っていた東洋工業から来た渡辺(昭雄)さんという人が設計しました。この拡販のために、わたしが工場から営業に引っ張られたわけでした。けれどマシンとして優れていても、プログラムを作る人が重要でした。プログラムがなければ計算機はただの機械ですから。それで、SE教育やソフトが大事というので、1965年に日本IBMから安藤馨さんに来てもらった。
 安藤さんというのは、戦前から計算機にかかわっていて、技術者の育成にたいへん力を入れた方でした。有隣電機精機が持っていた計算センターを富士通が譲り受けて、受託計算サービスの「ファコム」という子会社を作っていたのですが、ここに安藤さんを迎え、それを改組して「富士通ファコム」になったわけです。

    3

 1965年に発売された「FACOM230―10」は、それまでの電子計算機と比べるとはるかに使いやすかった。加えてカナ文字が使えるCOBOL「カナCOBOL」でプログラムを作ることができた。
 富士通は
 ――一気に市場を席巻しよう。
 と考えた。
 このころのことを補足しておく。
 1960年代の中ごろを過ぎると、産業界でようやく電子計算機が脚光を浴び、営業戦線は激しさを増していた。富士通にとって計算センターの重要性が増し、富士通と富士通ファコムの調整が、営業管理部長だった名木田氏の担当になった。
 ところがその富士通ファコムには、一筋縄ではいかない”サムライ”たちが集まっていた。もと有隣電機の技術者に加え、安藤馨氏を社長として迎え入れた折、一緒に移籍してきた日本IBMのセールス・エンジニアやシステム・エンジニア、その後に増強したファコムの社員たちがいた。混成部隊といっていい。彼らは富士通ファコムに移籍したものの、
 「オレたちが支えているんだ」
 という意気込みが強かった。
 そのなかに田部雄三という男がいた。
 田部は1930年、東京に生まれ、早稲田大学の電気通信を卒業して日本IBMに入った。羽田近くにあった糀谷工場を振り出しにプログラマーとなり、労働組合書記として水品浩や稲垣早苗と渡り合い、一方では日本工業規格の標準化部会に出てコンピュータ用語の統一に尽力した。のち安藤馨氏とともに日本IBMから富士通に移籍し、名木田氏が富士通ファコムの再建に乗り出した当時、電算センター部門長。高学歴の割に角刈りの額に太い眉、ギョロッと睨む目に凄みがあった。
 「何をするにも、田部さんの了解を取らないといけない。田部さんは田部さんで、受託計算のお客さんを抱えているから、富士通本社の営業の言い分ばかり聞いていたのでは仕事にならない。そこでわたしが出向いて、スケジュールを打ち合わせ、マシンの融通をつけてもらった」
 本社の部長が出向いて、子会社の部門長をなだめすかす。そういう役割だった。そのあたりの事情について、名木田氏はこう話している。
 「わたしはいってみれば、裁判官のように、計算業務のユーザーと富士通の要求について、それぞれの言い分を聞いて、調整する面倒な仕事をする立場でした。公平な判断で現場に指示をしたので、何の問題も起きませんでした」
 「彼が偉かったのは、引き受けた仕事は必ず実行したし、何が何でも間に合わせたことです。納期は”目安”という程度の意味しかなかった当時、彼の姿勢には学ぶべきものが多かった。たまたま早稲田の同門ということで、何かとわたしの顔を立ててくれました」
 「もう一つ、田部さんが偉かったのは、FACOMの計算機を使っている計算センターを組織化したことですよ。1966年に発足したFACOM電子計算センター協議会がそれでね。小林大祐さんを表に立てて、彼が事務局を運営した。その貢献がなかったら、のちのFCAの基礎はできなかった」
 ちなみに田部雄三はこののち日本電波塔の前田久吉に請われ、日本EDP"に移り専務、副社長を歴任した。前田が頭を痛めていた累積赤字を短期で解消するために、大胆なリストラを断行した。これがために業界での評判は決して芳しくなかった。
 また、人を驚かすようなアドバルーンを揚げることもなかったが、1980年代には従業員350人を数えるまでに規模を拡大している。2003年1月、73歳で没。

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