㈱アトミテック代表取締役 松本浩司氏~タウン誌をWeb化 地域の情報を発掘しましょう~①
久しぶりの《記者会インタビュー》である。目先を変えて、という意図ではないが、今回は山口県宇部市に本社を置くアトミテックという小さな会社の社長を務める松本浩司氏である。同社は昨年、各地で発行されているタウン誌に注目、そのコンテンツを利用して簡単にWebポータルを構築できるシステムを開発した。エールを送る気持ちを込めて、ここにいたるまでにどのような経緯があったのか、最終的なねらいは何か等々をインタビューした。
――これまでの記者会インタビューは業界大手の経営者や公的機関のオピニオンリーダーが中心でした。地方の小さな会社が登場していなかった。時間的・金銭的な制約で取材に出向けないという事情があったにせよ、自分としては忸怩たる思いがあったわけです。地方のソフト会社というと、西の方は岡山、広島、その先は福岡、沖縄ということになって、山口はリーチしたことがなかった。で、ある会合で御社の東京事務所の川崎さん(勝裕氏)とお会いしたとき、「近く社長が上京するからお会いになりますか」というお話をいただいた。ある意味では勿怪(もっけ)の幸いということでして……。
松本 話があって、記者会のホームページも見させていただいて、そうしたらインタビューに出ているのはすごい人ばっかりじゃないですか。それに佃さんはバンバン切り込んでるし。当社なんかが登場しちゃっていいのかな、というのが正直なところです。
――それはあまり気にしないでいいんですけど、まず例のWebポータル構築システムね。あれを見たとき、「あ、これはやり方ひとつで化けるぞ」と思いました。第一印象は、タウン誌やフリーペーパーのコンテンツをそのまま使うというのは、なかなかいい着眼だな、と。
――その通りです。ただ川崎さんと話をしていてね、要員派遣という安易なビジネスはしたくない、と。生業(なりわい)として派遣、常駐もアリだけど、「ソフト業」を名乗る以上、ソフトで勝負したい、という話でした。そういう意気込みを持った会社の経営者なら、面白いインタビューになるんじゃないかと思ったんですね。
松本 ありがとうございます。たしかに宇部市で当社はちょっと異質かな?
――宇部市というと、宇部情報さんがありますよね。というか東京にいる我われには宇部情報システムしか思いつかない。
松本 もともと宇部興産の工場城下町ですからね。宇部情報さんは今はオージス総研グループといっていいけれど、いずれにせよ宇部市のIT系の会社というのは、ほとんどが宇部情報さんから仕事をいただいて、それで成り立っている。人口18万人の宇部市でクローズしてるんです。だから外に出て行く必要がない。
――なのにアトミテックは福岡市にも東京にも拠点を持っている。資本金1,000万円、従業員35人の規模でいうと、ちょっと背伸びかもしれない。
松本 よく言われます。でもそれじゃ面白くないじゃないですか。もともと地域のシガラミに縛られたくなかったし、同じように社員を縛りたくない。ソフトウェアって、そういう可能性があるものだから。会社を運営するために技術者の派遣もしてますけど、やっぱり提案型というか、自社のアイデアと技術でお客さんをつかんで、独自のマーケットを持ちたいじゃないですか。派遣をすれば楽なのは分かってるんです。でもそれなら会社を興す必要はない。
――本題から逸れちゃうけど、松本さんがソフト業を始めたきっかけは何だったの? どこかからスピンオフしたんですか?
――会社を継いだんだ。
松本 そうです。
――え~と、今はおいくつ?
松本 まだ若輩ですよ(笑)。だから宇部では大人しくしてます。何せ、地元に戻ったときから、会社がおかしくなった家の息子という目で見られるじゃないですか。何をやるにもそれが付いて回るわけです。仕入れをしようにも現金じゃないとダメとか言われちゃって。で、26のとき、仲間を見つけて新しいビジネスをやろう、と思い立ったんです。お金がなくても始められるのは何だ、って考えたとき、ちょうどITがブームでしてね。
――それまでのコンピュータが、Windows95とインターネットで一気に「IT」ということになりましたね。でも仲間を見つける、っていても、伝手がないでしょう?
松本 それで自分でホームページを開いている人を探して、一緒にやらないかと声をかけていったんです。当時、県内で個人のホームページを開いていた人は少なかったんですけど、何とか2人見つかって、それぞれに思いのたけを話して、そうしたら2人とも「いいよ」と返事をしてくれまして。損得抜きで一緒に苦労してくれる仲間が見つかったのはラッキーでした。
――仕事はあったの?
松本 ありゃしませんよ。それで工場の夜勤のアルバイトをやりながら、昼間は営業をやって、最初はホームページ作りを受託する仕事を取って、一緒にやろうといってくれた2人に作ってもらった。ムチャクチャ頑張りましたよ。
――社長が工場のアルバイト、か。世の中はITブームでしたけど、こっちはそれどころじゃない。でもそれを乗り越えて現在につながっているんだから、浮わついてないわけだ。
松本 借金は返さなきゃならないし、仕事はこなさなきゃならないし。2000年に有限会社を起こしたとき、「会社の理念は?」なんて尋ねられましたけど、食っていくのが精一杯、必死でした。
――何とかなるかな、と思ったのはいつごろ?
松本 やっとこの2年ぐらいかな? これまでは無手勝流でガムシャラに走ってきましたから。工場城下町なんで、人を集めて派遣すれば、一定の利益は出る。でもそれはやりたくなかった。宇部に生まれて育ったんだから、外で稼いで少しでも地元に貢献したいという思いが強かった。

松本 話があって、記者会のホームページも見させていただいて、そうしたらインタビューに出ているのはすごい人ばっかりじゃないですか。それに佃さんはバンバン切り込んでるし。当社なんかが登場しちゃっていいのかな、というのが正直なところです。
――それはあまり気にしないでいいんですけど、まず例のWebポータル構築システムね。あれを見たとき、「あ、これはやり方ひとつで化けるぞ」と思いました。第一印象は、タウン誌やフリーペーパーのコンテンツをそのまま使うというのは、なかなかいい着眼だな、と。
工場城下町では異端児かな?
松本 そう言っていただけるのは嬉しいんですけど、最初にうかがっておきたいのは、何で当社なんでしょうか、ということです。地方都市のソフト会社なら他にいくらでもあるじゃないですか。――その通りです。ただ川崎さんと話をしていてね、要員派遣という安易なビジネスはしたくない、と。生業(なりわい)として派遣、常駐もアリだけど、「ソフト業」を名乗る以上、ソフトで勝負したい、という話でした。そういう意気込みを持った会社の経営者なら、面白いインタビューになるんじゃないかと思ったんですね。
松本 ありがとうございます。たしかに宇部市で当社はちょっと異質かな?
――宇部市というと、宇部情報さんがありますよね。というか東京にいる我われには宇部情報システムしか思いつかない。
松本 もともと宇部興産の工場城下町ですからね。宇部情報さんは今はオージス総研グループといっていいけれど、いずれにせよ宇部市のIT系の会社というのは、ほとんどが宇部情報さんから仕事をいただいて、それで成り立っている。人口18万人の宇部市でクローズしてるんです。だから外に出て行く必要がない。
――なのにアトミテックは福岡市にも東京にも拠点を持っている。資本金1,000万円、従業員35人の規模でいうと、ちょっと背伸びかもしれない。
松本 よく言われます。でもそれじゃ面白くないじゃないですか。もともと地域のシガラミに縛られたくなかったし、同じように社員を縛りたくない。ソフトウェアって、そういう可能性があるものだから。会社を運営するために技術者の派遣もしてますけど、やっぱり提案型というか、自社のアイデアと技術でお客さんをつかんで、独自のマーケットを持ちたいじゃないですか。派遣をすれば楽なのは分かってるんです。でもそれなら会社を興す必要はない。
――本題から逸れちゃうけど、松本さんがソフト業を始めたきっかけは何だったの? どこかからスピンオフしたんですか?
無手勝流の起業だった
松本 ソフトウェアについて、私は全くの素人です。今はもう屈託なく話せますけど、高校2年生のとき、私の親父が経営していた電子部品の会社が傾きましてね。それで大学には行かないで、電子工学の専門学校に進んだんです。そのあと父親の知り合いの同業の会社に入って3年ほど修行をしまして。23のとき宇部に戻ったんです。――会社を継いだんだ。
松本 そうです。
――え~と、今はおいくつ?
松本 まだ若輩ですよ(笑)。だから宇部では大人しくしてます。何せ、地元に戻ったときから、会社がおかしくなった家の息子という目で見られるじゃないですか。何をやるにもそれが付いて回るわけです。仕入れをしようにも現金じゃないとダメとか言われちゃって。で、26のとき、仲間を見つけて新しいビジネスをやろう、と思い立ったんです。お金がなくても始められるのは何だ、って考えたとき、ちょうどITがブームでしてね。
――それまでのコンピュータが、Windows95とインターネットで一気に「IT」ということになりましたね。でも仲間を見つける、っていても、伝手がないでしょう?
松本 それで自分でホームページを開いている人を探して、一緒にやらないかと声をかけていったんです。当時、県内で個人のホームページを開いていた人は少なかったんですけど、何とか2人見つかって、それぞれに思いのたけを話して、そうしたら2人とも「いいよ」と返事をしてくれまして。損得抜きで一緒に苦労してくれる仲間が見つかったのはラッキーでした。
――仕事はあったの?
松本 ありゃしませんよ。それで工場の夜勤のアルバイトをやりながら、昼間は営業をやって、最初はホームページ作りを受託する仕事を取って、一緒にやろうといってくれた2人に作ってもらった。ムチャクチャ頑張りましたよ。
――社長が工場のアルバイト、か。世の中はITブームでしたけど、こっちはそれどころじゃない。でもそれを乗り越えて現在につながっているんだから、浮わついてないわけだ。
松本 借金は返さなきゃならないし、仕事はこなさなきゃならないし。2000年に有限会社を起こしたとき、「会社の理念は?」なんて尋ねられましたけど、食っていくのが精一杯、必死でした。
――何とかなるかな、と思ったのはいつごろ?
松本 やっとこの2年ぐらいかな? これまでは無手勝流でガムシャラに走ってきましたから。工場城下町なんで、人を集めて派遣すれば、一定の利益は出る。でもそれはやりたくなかった。宇部に生まれて育ったんだから、外で稼いで少しでも地元に貢献したいという思いが強かった。
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